「成熟した大人の意識」と「防衛的な子どもの意識」っていう区分が、ほんと画期的でですね。
これが区別つくようになった人たちが集まると、それだけで安全であるだけでなく、深い智慧が湧いてくる。そういう場をたくさん目撃してきました。
でもこれ、なんというか、学ばないと「成熟した大人の意識」をけっこう誤解してしまいます。
「防衛的な子どもの意識」が、正しい大人像についてたくさん意見を持っているから、そういう声と混同しちゃうんですよね。
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一例として。
僕が強く持っているアーリートラウマ、「ケアを引き出す防衛」。
そこを傷ついている子どもは、「身近な人が困っていたら、差し出せるだけ愛を差し出すのが大人。そうしたらその愛はやがてちゃんと返ってくるから。」っていう意見?見解?人間観?をもっているんですよね。
これ、この傷がない人にとっては、かなり真理に近いことだと思います。
でもここに傷がある人にとっては、真理風の病的思考。この人たちは(って僕を含むんだけれど)、病的なまでに自己犠牲を払ってしまう。
なぜなら、その傷ついた子ども(防衛的な子ども)の意識は、傷ついた当時、まずは相手(通常は母親)をケアしないと、相手(母親)が立ち行かなくなるし、そうなったら赤ん坊である自分はもっと大変な苦境に立たされることになる、最悪死ぬ、と捉えたから。
だからその恐怖にモチベートされて、相手のケアをする、相手に愛を差し出そうとする。相手がたて直ったあかつきには、こちらに愛が注がれる、と期待しながら。
その差し出している愛のような行為には、もちろん純粋な愛のかけらが入っている。けどそれだけじゃない。なんと言っても、自分をまず大切にする、ということがごっそりかけてしまっているわけ。
なのでこのパターンを強く持っている人に、「まず愛を差し出す」という解決策は役立たない。それを大人の姿だと思ったらますます迷子になる。だってすでに差し出していての現状だもんね。
違う切り口の見方が必要になるわけです。
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こんなふうに、あるべき大人の姿とか、愛とはこういうものという定義の中にも、無自覚にたくさんの不純物を僕らは抱えていて、それは不本意な現実創造に結びついていくわけなのです。
そしてこれは物心つく前とか、つくかつかないかのころの話なので、大人の意識でもう一度知識として学ぶことがとても役に立つ。というか、学ばなかったらまずわからない。
その第一歩が、最初に書いた「成熟した大人の意識」と「防衛的な子どもの意識」という意識の二つのモードを区別できるようになることなのです。
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