「自由になりたい問題」の本体
- 二子渉
- 3 日前
- 読了時間: 4分
パートナーとの関係で、もっと自由にしたいのに、パートナーが嫌がるからできない、という声は実によく聞きます。
今日はこの「自由になりたい問題」によくある誤解のようなものについて、あるいはその本体について書いてみたいと思います。
***
自由になりたい、けどパートナーが嫌がる、ってときに何が問題なのか。
どう思いますか?
ここでけっこう誤解している人が多いのは、「自由に振る舞うことをパートナーも誰も、止められない」という事実。
殺すぞと刃物突きつけて脅すとかするんじゃなければ、止められないでしょ。
これを読んでる人のほとんどはいい大人です。
中学生だったら、大人が安全確保しなきゃいけないし、実際に生きることの面倒も見ているので強制力も発動できる。
けど大の大人相手に、自由に振る舞わないよう強制することは、ほんとうはできない。
***
とはいえ、ほんとうはできないけれど、見かけ上、強制されちゃってるような状況は、生じる。
それは、自分の弱点を突かれてしまっている状況。
自分の中の傷ついた子どもの意識が、子どもの時にそう思ったのと同じように、「なすすべもない」と思ってしまっている時。
親にガミガミ言われたらなすすべもないと思ったかもしれないし、親に見捨てられるかもしれないことを考えたらなすすべもないと思ったかもしれないし、ほかにもいろいろあり得ます。
過去に絶望し、諦めてしまった子どもの意識が表れている時、僕らはいい大人として対応する力を見失い、状況に屈してしまいます。
***
逆にいうと、この構造が見抜けたならば、自分でさっさと自由に振る舞ってもいいわけ。
「子どもの時はしょうがなかったけれど、いまや自分もパートナーもいい大人だ。実際に力ずくで強制できる関係ではないんだ。よし、じゃあ自由にやらせてもらおう。」
って捉え直して、やりたいようにやる選択肢が生じます。
自分を自由にできる責任は、自分にしかないじゃないかと。
このまま進むと、僕らが名づけるところの結婚2.0に進んでいけます。
一人一人が自立して、相手のせいにすることなく生きる道。
自分で自分のことには責任を持つ道です。
***
さて実はここからが本題で。
「自由になりたい問題」の核心は多くの場合、実は「自由になりたい/できない」ということではない。
僕は多くのカップルを見てきて、そう思っているのでした。
そうじゃなくて、もっと厳密に言語化するなら。
「自分らしい感性で感じたいし、自由に振る舞いたい」
「そしてその自分で、あなたと幸せでいたい」
この二つを抱えて困っている状態。
勝手に自由になるだけなら、誰の許可もいらない。
でも
自由に自分らしくいながら、大切なあなたとも幸せに共にありたい。
そう思ってるからこそ難しい。
そして、「そんなことは所詮無理なのだ」と諦めている人がとっても多いのです。
***
で、これは自分の内面に自分で取り組むだけでは実現しません。
その自分を相手の前に表し、対話する必要があります。
「私は、自分らしい感性で感じたいし、自由に振る舞いたい。それは私にとって、すごく大事なことなのです。
そして同時に、その自分で、大切なあなたとも幸せに共にありたいのです。
これはこれで、私にとってはとても大切なこと。
あなたがどう思おうとかまわない、ということではなく、私も幸せでいたいし、あなたも幸せでいてほしいし、でもそのためにどちらかが無理をして合わせるということを望んでいるわけではないのです。
それでとても困っているのだけれど、あなたはどんな気持ちになるかな。」
というような真実を明かす対話をしていく必要がある。
そしてその時々で、自分の中の未熟で防衛的な子どもの意識が立ち上がってきたりするし、それをそれぞれ自分の責任でケアしつつ、ふたりで、ふたりに対する愛情を持ち寄れるようにしていく必要があります。
この困りごとを、共に幸せに生きるために、二人で抱える。
この具体的なやり方は、今ここで書くには膨大になっちゃうけれど、まあでもとにかくそのようにして進んでいくならば。
現実的にはどうしても叶わない部分が出てきて、それでも二人が思いやりあっていることが通じ合って、問題ではなくなることも起こりうるし、
お互いの現時点での限界を越えて、もっと創造的で愛情深い部分が現れて、思いもよらなかった道が見つかっていくこともあります。
その道が結婚3.0です。
それを実現する具体的な方法はGFLとしてまとまってる。
こういう世界、いいと思いません?

תגובות