今からずっと前、妻と出会って間もない頃のお話。
僕は当時、今よりもだいぶ病んでいて、パートナーや家族(親や子供など)とあたたかくつながっているという感覚はその時点で皆無で、それ以前にも恋に落ちている時に感じただけの人でした。家族についてもそうだったのがミソ。
自分だけで生きるなら、今日お迎えがきてもいいくらいに充実して生きることもできていたので、精神的に自立した人間とはそういうものだと思い込んでいました。今から思えば自己完結の病が重症だった。
さてまだまだそんなだった頃のある日、のちに妻になる人と小樽の隠れ家カフェで語り合っていました。
彼女はかねがね家族の温かいつながりについて熱弁していて、僕が全くピンとこないのをすごく腑に落ちなさそうにしていたのね。
その日は将来のことを思い描こうとしていて、映像ではうまく出てこないから、体の感覚で辿ってみようと試みました。温かいつながりがある未来。
そしたら、体の感覚ではわかるんですよね。わかった。あたたかかった。
こういう感じなのか!
この身体感覚でのヴィジョンが、それからずっと僕を導いていきました。
***
やがて僕は自分には、再会を約束している魂がいる、という強烈な確信を持ちました。その人は、僕の娘としてやってくる。その子に会いたい。会わずには死ねない。
順番は忘れているのですが、その確信と前後して、ある時映像としてのヴィジョンがやってきました。
それは森を背負った三角屋根の家の前に、僕と、赤ちゃんを抱いた彼女がいる。3人の、写真のような1枚の映像。
その映像がパッと見えた途端、なぜか涙が止まらなくなりました。
そしてそれ以来、その娘に会うという痛切な願いと、三角屋根の家の映像がずっと僕の中にあって、僕を引っ張り続けました。
とはいえ僕ら二人が一緒になるにはけっこう果てしない道のりがあって、僕らよりも後から出会ったカップルが結婚してゆき、子どもを迎えたりしているのを、祝福と痛みをもって何組もながめながら年月を過ごしたのでした。
あたたかいつながりを完全に切り離して生きられていた時期と違って、その感覚を少しずつ取り戻していった時期だったので、生まれて初めて「さびしさという苦痛」を強烈に体験するようになりました。
僕はそれ以前は、さびしくて辛い、という感覚を持ったことはなかったのです。今から思えば、つながりに対して深く深く絶望しきっていたからなんだけれど、まあとにかく、そうだった。
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