僕は個人的に、親子として再会を約束している魂がいるっていう感覚があります。
僕が親で、そこに娘としてやって来る魂。
でも、40過ぎるまでは子どもを持つことを全く想定していませんでした。 そんなにも愛しくて大事な存在が現れてしまうことが恐ろしかったのでした。
パートナーについてもそれに近いことがありました。
今の妻のように大切な人ができてしまうのが恐ろしかった。
だって死ぬのが怖くなっちゃうじゃないですか。
30代までは、今日お迎えが来ても笑って死ねる人生を目指していたし、
当時なら実際そうなっても笑って死ねたと思う。
それはしかし、全開で愛することをせずにいたから。
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それで今はその、娘ととても会いたいし、彼女はまだ現実世界にはいない。
彼女をどんな世界に招きたいだろうか、
ということはアナスタシアシリーズを読んで来たり、
それ以前にもインディアンの文化を学んで来たり、
そして違う角度からは妻と話し込んで来たりして、いろんなことを思うのです。
アナスタシアは、快楽の偶然の結果として子どもができるより、親が子どもを望んで、その明確な創造の意図のもとに迎えられるほうが、どれほどいいか、と語ります。
その子どものために、この地球の命の一部、動植物たちと愛でつながっているホーム(一族の土地・祖国)が用意されていたらどれほどすばらしいかって。
ほんとにそう思うんですよね。
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残念ながら僕の親は、そうした思いを持ってはいなかった。
少なくとも僕にそうした思いが伝わったことはないのです。
母は母なりに自信ないままに僕を愛していたのは、なんというか、知ってる。
実際よくしてくれたし、しっかり育ててくれた。
そうなんだけれど、、、どうして子どもが欲しいと思ったのかと僕が母に尋ねたことがあります。
その時の答えは、「どうしてって、、、どうもこうも当時はそれが当たり前だったから・・・。」というものだったし、これまで一度も、「子どもを持って本当に良かった」というような語りを僕は母からも父からも聞いたことがない。
このことに限らず、両親がほんとうにほんとうの真実を語っているのは、両親合わせてもほんの2、3回しかない。
そしてそうであった影響を、実は僕はとても受けていたのだと、ごく最近になってその痛みとともにわかって来たのでした。
少なくとも僕にとっては、ほんとうのことを目を見てまっすぐ伝えられてこなかったことのダメージは、計り知れないものとして今も残ってる。
生まれる時に本来あってしかるべき愛の空間が、僕にはなかったことが今ならよくわかる。
両親が愛し合っていて、自分がほんとうに望まれて生まれて来たことを、はっきりわかるような愛の空間。
両親が大地とつながっていて、この地球に来たらそれはパーフェクトに守られ、居場所があるのだとわかるようなそんな愛の空間。
本来はそれはあってしかるべきもの。今となってはそう思うのです。
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娘がやがて妻のお腹にやって来た時に、僕は特に後者、アナスタシア的な一族の土地はまだほんの断片しか用意してあげられていないと思うけれど、せめて妻と僕が深く愛し合っていて、君はとてもとても望まれて来たんだよとわかってもらえるような、そんな夫婦関係は築き続けたいとこころから思う。
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