その1で、子ども時代の僕は、誰一人理解してくれる人がいないと感じ、次第に誰にもほんとうのことは言わなくなり、宇宙の果てみたいな誰も入ってこれないこころの奥の孤独の部屋に、安息の場を見つけて引きこもった。
というところまで書きました。 でもさー、世界はなんどもなんどもその扉をノックしてくるわけ。
「いや、ふたこわたるよ、 ほんとうは君は美しさに感動しているよね。 大きな痛みを抱いているよね。 ほんとうに愛しているよね。 その気持ちをないことにしていていいのか?」って。
大人になってから、回復の旅がはじまりました。その反転が起こったのは20代の半ばで、それ以来とにかく僕は僕が感じていることを誰よりもちゃんとわかってあげるようにしよう、と思いました。誰がなんと言おうと、自分自身の理解者であろうと心がけるようになった。
そして20年くらい使わなかった愛ということばを、やっと使えるほどになったのが4年前くらい。
「そこかしこに降り注ぐ宇宙の愛を指差し、人々に伝える」
それが僕がここまでの人生で、こわごわと、時に隠れながらやり続けてきたことだったのでした。そう。やっていない風を装いながらもやめることもできずに来た。
そしてそれこそが、僕が唯一、命をかけてやりたいことだった。そう気付いて認めたのが約4年前。
そうなったら後はシンプルに進むかと思いきや。
そこからも、この道をいく覚悟を試される日々でした。
この4年くらいが、人生でもっともたくさんの痛みを感じた期間。そして、痛みに耐え切れないほどになって、でも別の道を行くのは違うと思って道を選んで、力つき痛みへの恐怖から身動き取れない感じになったことが何度かあります。数年前の離婚前後や、直近では今年の春の一連の出来事。
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春のことがあって、そこから僕はリハビリ的な生活をしてきたものの、実際にはまだその傷=痛みへの恐怖から完全には立ち直れていなかったんですよね。
とくに、僕が自分の感性で美しいと感じるものを美しいと言うこと、愛があると感じたところに愛を感じると言うこと、深く愛しているものをめぐる真実の痛みを感じると言うことについて。けっこう恐怖があって全開ではできないできた。その真実を無神経に踏みにじられる痛みを、また体験するのがこわい。
そんなに痛い思いをしながら、発信・表明する必要なんてほんとにあるんだろうか、いや、そんなことしなくていいんじゃないか、と感じてしまう部分が僕の中にありました。全部じゃなくて一部だけど、ある。
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今回出会ったその参加者さんとのやり取りを通して、その方が僕の発信を通して自分の真実につながる力を得てくれていたことを知った。
それも大きな大きな痛みを伴い、深い深い真実につながる作業。
それで、僕が感じてきた痛みが、とっても肯定された気持ちになったの。なんというか、深く慰められ、報いられ、励まされた。
「僕はやっぱり自分が感じていることを感じて、それを表現する必要がある」
それはほんとうに価値あることなのだと支えられた気がしているのです。
ここにこそ僕のコアがあり、僕の源があり、僕の真実がある。そしてそこから切り離されたら、僕のいのちは無力化されてしまうし、そんなことを僕が許してちゃいかんのです。少なくとも僕は自分をそうは扱わない、と何度でも決意しようと思う。
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「痛みを恐れたら、それがあなたの中の愛から来ているということを見失う」
ジョアンナ・メイシーが常々言っていること。
そしてそれは、これを読んでいるあなたもそうなの。
あなたが個人的なことで痛みを感じていたり、世界で起こっていることに痛みを感じていたら、それはあなたにとってほんとうに大切な何かがそのあたりにある。
あなたがこころから大切に想い、愛している何かがそのあたりにある。
僕らは痛みを恐れ、それを感じないで済むように回避する行動をとる。僕だったら、どうせ誰もわかってくれないということにして、表現をやめるという行動だったりね。
でもそれは、あなたを源から切り離し、あなたのこころの生命の流れを枯らしてしまう。
だからどうか、その痛みと、そこにある愛を大切にしてください。そしてそれを尊重していこうと決めている人と繋がってください。それはあとに続く人が真実の道を行くのをはげますだろうし、先に進む人の受けた大きな痛みを癒すことになる。
僕らはうっかり結果的に、他の人の真実を粗末に扱っちゃうことはある。それは残念だけれどある。でも、しまったと思ったら選び直す、そう決めている人と繋がってください。
僕はそう決めているし、僕の周りにはそういう人が集まってきてる。ぜひここに加わって欲しいの。
それはほんとうに素晴らしいものに出会いつづける人生になります。
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